他者の食事が魅力的に見える現象の構造的考察
なぜ他人の食事は自分のものより魅力的に見えるのか、自称哲学者チェーニがその構造を考察します。
私の名はチェーニ。哲学者、である。と、思われる。
本日もバイトを終え、なんとか帰宅した。帰りにコンビニへ寄ったところ、自分で選んだ弁当より、隣の客が手に取った弁当のほうが明らかに正解に見えた。味はまだ確認されていない。
それでは、今夜も論文の執筆にとりかかる。
他人の食べ物が、自分のものより美味しそうに見える。よく考えると奇妙である。遠くから皿を見ただけでは、味や香りや食感を正確に評価できない。それでも判断は頻繁に発生する。本稿では、この「他者食事優位性の錯覚」について考えたい。
具体的な例で確認していく。
先日、食堂でAランチのサバ味噌定食を注文した。すると隣へBランチのチキンカツ定食が運ばれ、私は明確にBが正解だったと確信した。根拠はない。自分で選んだサバ味噌への判断が、わずか30秒で覆されたのである。
別の日、私はBランチを注文した。すると隣へ届いたAランチが魅力的に見えた。つまり、どちらを選んでも、選ばなかったほうが優れて見える構造になっている。これは定食ではなく、私の認識の問題である。たぶん。
また、学会の懇親会でバイキング料理を取り分けた際、向かいの研究員の皿が自分より充実して見えた。よく観察すると、構成要素はすべて同じだった。それでも彼の皿のほうが豊かに見えた。理由を考えている間に、料理は冷めた。
食べていないものは可能性として開かれているが、選んだものは現実として閉じている。その非対称が、他者の皿を優位に見せるのかもしれない。
ただし、隣の皿が実際に優れていた可能性も否定できない。また、この現象が食事以外にも当てはまるなら、本稿の範囲を大幅に超える。これは今後の課題とする。
以上をまとめると、他者の食事が魅力的に見える現象は、選ばなかったものへの可能性と、選択後の後悔が組み合わさって発生すると考えられる。どの定食を選んでも、もう一方を正解だと感じるのである。
本研究は構造を整理したが、何を注文すれば後悔しないかには何一つ触れていない。
……つまるところ、
知らんがな!!
……で、ある。
おっと、もうこんな時間である。睡眠時間は僅かしか確保できない。と、推測される。これは厳しい。
明日の昼食でも、隣の皿を正解だと判断するであろう。
とりあえず、起床後に、注文することにする。