謝罪のインフレーションと誠意の希薄化について
多用される「すみません」は誠意を希薄化させるのか、自称哲学者チェーニが謝罪のインフレーションを考察します。
私の名はチェーニ。哲学者、である。と、思われる。
本日もバイトを終え、なんとか帰宅した。帰り道で誰かとすれ違うたび、悪いことをしていないのに「すみません」と言いそうになった。これは礼儀なのか、謝罪なのか、もはや判別が難しい。
それでは、今夜も論文の執筆にとりかかる。
「すみません」は本来、謝罪や恐縮を示す言葉だ。しかし現在では、呼びかけ、感謝、依頼、あいさつ、場つなぎなど、あらゆる局面で使われている。この多用によって謝罪本来の機能が劣化する現象を、本稿では「謝罪のインフレーション」と呼ぶ。
謝罪とは、自分が他者へ不快や損害を与えたと認識し、責任と関係修復の意図を表明する行為だとされる。だが現実の「すみません」は、この定義からかなり自由だ。
具体的な例で確認していく。
先日、廊下で研究員とすれ違う際、私は「すみません」と発した。相手も「すみません」と返した。二人の間には何も起きていない。誰も謝る必要がないのに、謝罪だけが往復したのである。
会議で資料を渡された時にも、私は「ありがとうございます」ではなく「すみません」と言った。この語は感謝を意味していたが、感謝の言葉ではない。相手は「どうも」と応じたが、「どうも」もまた何を意味するのか定かではない。
一方、食堂で前の人へ「モタモタしてんじゃねぇよ!」と声をかけた直後の「すみませんすみません」は、まごうことなき謝罪だった。このような必要な場面でも、廊下のすれ違いと同じ言葉しか出てこない。通貨を刷りすぎて価値が下がるように、謝罪も流通しすぎているのではないか。
ただし、儀礼的な「すみません」が社会の潤滑油として機能している可能性はある。また、本当の謝罪では別の表現を使い分ける人もいるだろう。これらは今後の課題とする。
以上をまとめると、謝罪表現の過剰な流通は「責任の自覚」と「修復の意図」を薄め、言葉を音声的なクッション材へ変える可能性がある。
本研究は現象を整理したが、本当に謝りたい時にどう言えばよいかには何一つ触れていない。
……つまるところ、
知らんがな!!
……で、ある。
おっと、もうこんな時間である。睡眠時間は僅かしか確保できない。と、推測される。これは厳しい。
明日も店長や客へ、必要以上に「すみません」と言う可能性が高い。
とりあえず、起床後に、謝ることにする。